アームチェア・トラベラー

この秋仕事が一息ついているであろう時期、10月と11月にそれぞれ旅を計画している。本棚から何冊かの紀行本を取り出して、行き先を考える。
こんな時に読み出して、猛烈に旅愁に駆られてしまう一冊が、巌谷國士「日本の不思議な宿」。この本で紹介されているような老舗旅館に一人で泊まるなんてことはないわけだが、この本は老舗旅館の美食を紹介しただけの本ではない。
学生時代の貧乏旅行で、愛媛県佐多岬に友人のKとたどりついたときの体験を、当時に戻ったように鮮やかにつづっている。

長いこと山道を歩き、ようやく岬の灯台にたどりついたときには、いよいよ怪しい空模様になっていた。
 そのとき目の前にひろがった光景を、私はいまも忘れることができない。
 正面の雄大な海の上に、手前から遠い対岸の九州佐賀関のほうまで、一直線に白い筋がのびている。よく見ると一種の滝である。つまり、右の瀬戸内海と左の宇和海との水位差のせいか、海がまっぷたつに割れ、境目に幅広い低い滝を生じていたのである。
 大気もまっぷたつだった。右のどんよりした瀬戸内海の海からは、雪のつぶてが吹きつけてくる。他方、左の宇和海は晴れ間があり、白雲の上からさわやかな南の陽光が照りつけてくる。
 佐田岬という障壁によって南北に二分された世界のちょうど境目に立ち、しかも正面に九州まで一直線の白い滝を見はるかしているというこの気分、この感覚に、私たちはかなりの昂揚を味わった。北から吹きつける雪と南から照りつける陽光を交互に浴びながら、岬の先端の崖の上で、小躍りしつつ叫んでいたKの姿をいまもおぼえている。

この文章を読んでから、佐田岬に行きたいと思い続けてもう10年以上経つ。今では車道も整備されて格好なドライブコースになっているらしい。巌谷國士が見ることができた光景は、天候がもたらした僥倖かもしれないけれど、死ぬまでにこんな光景を見てみたいと思う。